第7回 京都府京都市・藤森神社 駈馬神事 その1

京都市の南、伏見区深草にある藤森(ふじのもり)神社は「勝負の神、勝ち運の神」を祀る神社として名高い。また全国的にもユニークな「駈馬神事(かけうましんじ)」と呼ばれる祭事があり、神社の入り口には「勝ち運 馬の社」と大書されている。どんな馬神事なのか、紹介したい。
「こどもの日」と藤森神社
5月5日のこどもの日。新緑が目に眩しい快晴の道を歩いている。ここは京都市伏見区・深草の森。目的は藤森(ふじのもり)神社で行われる春の大祭・藤森祭。今日は境内の参道で毎年恒例の「駈馬神事(かけうましんじ)」が行われる。
藤森神社は京都の平安京が作られる前からこの地にあった古社。社伝によれば創建は203年。1800年以上の歴史を誇る。日本書紀の三韓征伐で有名な神功皇后が戦勝後、この地で祭祀を行ったのが神社の起源という。その後、周辺のいくつかの神社が合祀され、中世までに今の形になった。そのため、本殿は、東殿、中殿、西殿の三座からなり、それぞれ祭神や建築年代が異なる。
「菖蒲の節句」発祥の地としても知られる。
菖蒲の節句は「端午の節句」の別名だ。「端午」とは5月最初の牛(うま)の日を指す。この日を祝う風習は中国に2000年以上前からあったといわれる。もともとは春秋戦国時代の偉人を供養するための祭りだった。それが病気や災厄を避ける行事に変化した。「香り良いものが邪気を払う」といわれ、同時期に花が咲き、薬草としても用いられた菖蒲が注目された。中国の人々は菖蒲の葉を軒下に吊るしたり、根を刻んで薬湯としたりしたという。この風習が日本に伝わり、端午の節句は菖蒲の節句となった。
「菖蒲」はその語感から、「尚武(武を尊ぶこと)」、「勝負」につながり、武人にとって縁起の良い植物だった。
これら諸々のストーリーが、すでに奈良時代には戦勝祈願の社として有名だった藤森神社に結びつき、「『菖蒲の節句』発祥の地」となったようだ。さらにいつしか「藤森祭の日に飾る武者人形には藤森の神が宿る」といわれ、端午の節句に鎧兜をまとった五月人形を飾るようになった。
5月5日のこどもの日と藤森神社は切っても切れない関係なのだ。

境内にある「絵馬舎」には大きな絵馬が飾られている。

神功皇后が纛旗(「とうき」。軍中の大旗のこと)を立てたという「御旗塚」。

毎年「こどもの日」に行われる藤森祭には、氏子の子供たちも祭りの装束を来て参加する。
駈馬神事の由来
駈馬神事は藤森神社の氏子が戦場で用いられた馬術の技を披露する珍しい馬神事だ。京都市の無形民俗文化財にも登録されている。
その由来は、奈良時代までさかのぼる。
781年、陸奥の地で反乱が起きた。時の朝廷は桓武天皇の弟・早良親王を征討将軍としてかの地に派遣。勝ち運の神社として知られた藤森神社で必勝祈願の出陣式を行った。その時の模様が、この神事のもとになった。
早良親王は悲劇の王子で、見事反乱をおさえたものの、政府高官・藤原種継の暗殺事件に連座したとされ、流刑地で憤死。真相は不明だが、おそらく政争に敗れたのだろう。王子の死後、朝廷で不幸が重なり、たたりと恐れられた。御霊を鎮めるため、祭神として藤森神社に祀った。駈馬神事もその流れにある。
藤森祭自体の起源も古く、863年に朝廷の実力者・藤原良房が清和天皇の輪行を仰ぎ、長寿と国家安寧を記念して「深草貞観の祭」を行ったのが始まりといわれる。その後も時の天皇・上皇が行幸されたという。
時は流れ、江戸時代中期。中国・朝鮮で行われていたという曲芸的な要素が技に加わり、今に続く形ができあがったといわれる。
この話を裏付ける事実を直接聞いたことがある。以前、取材で会った韓国の済州大学の先生が、昔の朝鮮で行われていた馬行事(ホースショーのようなもの)を復活させるために参考として駈馬神事を見に行ったと話していた。逆輸入のような話だが、起源を想起させる。
江戸時代中期には、京都・伏見奉行所の警護役や各藩の馬術指南役など腕に覚えのある武士たちが参加して、技を披露していたという。明治期に入ると、神社の氏子たちが神事を引き継いだ。現在では7つの技が、親から子へ、子から孫へと伝えられている。

桓武天皇が平安京に遷都した際、南の守護神として神を祀った「大将軍社」。

境内の斎館に飾られた鎧武者の武具一式。

駈馬神事に使われる馬。

神事では、多くの観客が見守る中、馬が境内の参道を駆け抜ける。