第3回 京都府京都市・上賀茂神社 賀茂競馬前編 その1
上賀茂神社で5月に行われる賀茂競馬は、同月に行われる葵祭と並んで知られる同社の神事だ。平安時代に始まった古式ゆかしいこの神事は、日本競馬の原点ともいわれ、日本の馬文化の中でも非常に重要な位置をしめている。前編・後編の2回に分け、儀式の内容を詳細にレポートする。
神事の起源
京都三大祭りのひとつ葵祭では、総勢500人を超える人々が平安朝の衣装を身にまとい、牛車などとともに京都御所から下鴨神社を経て、上賀茂神社に至る約8キロの道を粛々と行列していく。その様はまるで絵巻物のようだ。そして葵祭と並ぶ有名な神事が「賀茂競馬(正式には「かもくらべうま」と呼ぶ)」だ。
日本における「競馬」の歴史を探っていくと、最初の記録は797年に編まれた「続日本紀」にある。701年、文武天皇臨検のもと走馬(そうめ)が行われたと明記されている。
奈良・平安朝では、朝廷の年中行事として開催されるとともに、娯楽として有力貴族の間で、宗教儀式として寺社の間で、盛んに行われた。
鎌倉時代も競馬は続いたが、朝廷の力が衰えると公の行事としては廃れていった。南北朝の動乱がこの流れに拍車をかけ、上賀茂神社を含む一部の有力寺社を除き、競馬はめったに見られない行事となる。
逆に賀茂競馬は貴重な観覧機会となり、その名声を不動のものとしていく。
戦乱の最中でも存続できた理由としては、古くから時の権力者の尊崇を集めた指折りの大社であったこと、財源となる所領を持ち、それらが安堵されていたこと、などがあげられる。
こうして年中行事化した賀茂競馬は現代まで連綿と続けられてきた。今では日本の古式競馬といえば賀茂競馬のことを指す。
京都・上賀茂神社の五月は忙しい。5日は賀茂競馬、15日に葵祭がある。そんな5月に入ったばかりの1日、5日の競馬に向け、馬と人を確認し、番組を作る模擬レースが行われる。それが足汰式(あしぞろえしき)だ。
足、すなわち馬の速さをレースごとに合わせ、大きな優劣がつかないように調整する。クラス分けのようなものだ。足を合わせておけば、レースは拮抗し、観客は沸く。神事ではあるが、市井の人々にとっては大昔からの娯楽でもある。
賀茂競馬の起源を探れば、説は二つ。平安時代は堀川天皇の御代、1093年。天下太平・五穀豊穣を祈願して、宮中武徳殿での競馬会式を上賀茂神社に委託したことに始まるという説。もうひとつは、宮中で行われた「菖蒲(しょうぶ)の根合わせ」という年中行事の際に、上賀茂神社に勝利を祈った左方が勝ったので、競馬会式一式が奉納されたという説。
競馬を開催するため資金となる競馬料所として荘園も寄進された。近畿地区を中心に加賀国金津荘(石川県)から伊予国菊方荘(愛媛県)まで19カ国20箇所にのぼる。この事実に賀茂競馬を特徴付ける点がある。
寄進された荘園から競馬用の馬が一頭ずつ集められるのだ。馬には荘園の名が冠され、レースも対抗戦といった形をとる。馬は野生馬。これを馴致して乗馬に直す技も代々上賀茂神社に伝えられて来た。「賀茂悪馬流」と言われる調教法がそれだ。この場合の「悪」は「いい、悪い」ではなく、「強い」という意味を表す。
レースは「競馳(きょうち)」とよばれ、基本は左方(さかた)・右方(うかた)に分かれた2頭のマッチレース。ただし、同時スタートではなく、先馬が一馬身先行し、追馬がそれを追う。先馬が差を維持したまま逃げ切るか、あるいは追馬が差を縮めるか追い抜けば勝ち。先馬と追馬の速さを合わせ、選ばれた2頭を番(つがい)とよび、組み合わせを決めることを番立て(ばんだて)という。
きれいに整備された境内の走路。
走路は木と竹で作られた埒で観客席と仕切られている。
倭文(しどり)の馬
境内に入ると、馬のいななきが聞こえた。その方向に歩を進める。東側の林のようだ。行ってみると簡単な馬房が設けられ、すでに馬装を終えた馬が並んでいる。その数、12頭。和鞍、和鐙、木綿の手綱と独特の出で立ちだ。馬はすべてサラブレッド。いずれも元・競走馬とのこと。中には活躍馬もいるらしい。
奥の一頭が目に留まった。緋色の頭絡に紅白の手綱、同じく緋色の馬衣がこの一頭だけにかけられている。明るい緋色が新緑の木陰に映える。「倭文(しどり)」の馬だ。
美作国(「みまさかのくに」。今の岡山県)にある倭文荘は、上賀茂神社の荘園の中でも一番の格式を誇る。ここから献進された馬は「倭文(しどり)」と呼ばれ、左方の一番馬となり、儀式全体の先導役ともなる。非常に重要視されている。
倭文以外の馬は番立てが決まるまで名前はつかない。レースの順番と左方、右方によって荘園の名前が決まっていて、これが自動的に馬名に割り振られる。例えば、四番左方の馬は「舟木」(近江国舟木荘の馬)と呼ばれる。いつの頃からか、馬がどの荘園の出身かは問われず、荘園名だけが残った形になった。どの馬が何の荘園名で呼ばれるかは、本日の足汰式で決まる。
「時間だから倭文を出して」
神社スタッフの声が響き、倭文とその一行が動き出す。
一行の後を追う。二人牽きで進む倭文は境内を流れる幅2mほどの「ならの小川」にかかる橋を超え、庁屋(境内の平屋の建物)の敷地奥にあるりっぱな馬房に一頭だけで入った。馬を代表してお祓いを受ける形だ。堂々としたもので、うるさい素振りは見せない。
庁屋の殿上には白い上衣に袴といった「浄衣(じょうえ)」を来た12人ほどの人が陰陽道に基づくお祓いを受けている。どうやら本日の「乗尻(のりじり)」たちのようだ。古式競馬では騎手のことをこう呼ぶ。全員男性だが、年齢はまちまち。いずれも賀茂神社の神主の家柄から分かれた歴代の氏族で構成される「賀茂県主(かもあがたぬし)同族会」の会員。催しに関わる諸役につく人たちも同会の出身者だ。
昔日は馬に乗る人も多く、多勢が応募したため選ばれるのはたいへんな名誉だったとのこと。今は乗り手が少なく、集めるのに苦労している。馬も同様。サラブレッドが多く、競走能力は高いが、一般的に気性は激しい。こういった馬を乗りこなすのは素人にはむずかしい。本当は日本古来の在来種「和種馬」が使えるようになればいいのだが…。
庁屋へと牽かれていく「倭文(しどり)」。
庁屋の殿上でお祓いを受ける「乗尻(のりじり)」たち。
倭文は庁屋の馬房に入り、お祓いを受ける。