TAW Thoroughbred Aftercare and Welfare

馬術の競技馬として
第二の馬生を歩み出す
レッドラディエンス。

6歳のレッドラディエンスは生まれて初めて馬術の競技会に出場した。
出場したのは静岡県の御殿場市馬術・スポーツセンターで8月に行われた馬場馬術の競技会だった。オープン参加だったため点数も、順位もつかなかったが、手綱を取った林伸伍さんは「合格ですね」と、無事に馬術の競技馬として再出発したレッドラディエンスに及第点を与えた。

中央競馬で競走馬として活躍したレッドラディエンスが「第二の馬生」に選んだのは馬術だった。2024年いっぱいで競走馬としてのキャリアを終えたレッドラディエンスが、御殿場市にあるアイリッシュアラン乗馬学校にやって来たのは2025年2月のことだった。林さんはアイリッシュアラン乗馬学校でチーフインストラクターを務める。2021年の東京五輪では日本代表として馬場馬術に出場した林さんは、この世界の日本の第一人者である。 レッドラディエンスがアイリッシュアラン乗馬学校に来て以来、林さんが馬場馬術を一から教え込んできた。

「うちに来たばかりのころは物音に敏感なところがありましたが、動きはいいし、精神的には肝がすわっているタイプ」
そんなレッドラディエンスをじっくりと育てていった。朝か夕方の涼しい時間帯を選び、毎日、30分ほどの時間をトレーニングに充てた。「長すぎると集中力が続かない。苦しくないところで終わるのがちょうどいいんです」と5カ月あまりの時間をかけて、実戦デビューに結びつけた。

「もっと時間がかかるのかと思っていましたが、実戦でしか学べないこともありますから、競技会に出場させました」と林さんは8月の競技会で馬術デビューさせた狙いを語った。
元競走馬がすんなりと馬術の競技馬に転身できるわけではない。全身を使って、速いスピードで走る競馬と、静かな動きを要求される馬術とでは、同じ馬が行うスポーツでも必要とされる動き方がまったく違う。

サラブレッドは本来小心者で怖がりな品種だ。どちらかといえば馬術には不向きなタイプである。馬術の競技馬は中間種といわれる品種がほとんどで、もともと性格も大人しく、体もサラブレッドよりは大きい。パワーもある。走ることにかけて、サラブレッド以上の品種はいないが、こと馬術となると弱点を抱えている。

馬場馬術は障害飛越、総合馬術と並ぶ馬術競技のひとつで、フィギュアスケートや体操などに例えられる。2024年のパリ五輪で「初老ジャパン」が銅メダルに輝いたのは総合馬術団体だった。

馬場馬術は横20メートル、縦60メートルのアリーナの中で、踊るように演技する種目だ。常歩(なみあし)、速歩(はやあし)、駈歩(かけあし)のほか、パッサージュやピアッフェという特別なステップを組み合わせて与えられた課題をこなす。ほんとうは騎手の指示に従って動いているのだが、まるで馬が自分の意志で動いているかのように見せることが肝心だ。

レッドラディエンスは2019年4月20日に北海道白老町の社台牧場で生まれた。父はディープインパクト。競馬ファンでなくても知っているほどの名馬だ。母のペルフォルマーダはアルゼンチン生まれで、現地のオークスで3着になった実力の持ち主だった。

ディープインパクトの現役時代に全14戦でコンビを組んだ武豊騎手は「走っているというより飛んでいる感じ」と、その乗り心地を表現した。そのためディープインパクトは「空飛ぶサラブレッド」といわれた。2005年に皐月賞、日本ダービー、菊花賞という三冠レースをすべて制し、史上6頭目の三冠馬に輝いた。7戦全勝。デビューから無敗で三冠馬になったのは1984年のシンボリルドルフ以来史上2頭目の快挙だった。

ディープインパクトは2006年の有馬記念優勝を最後に現役を引退し、2007年から種牡馬活動を開始した。父としての実績は現役時代以上の衝撃を競馬界に与えた。

ディープインパクトの子どもは日本ダービー7勝という種牡馬別歴代最多勝を挙げたほか、2008年から2020年までに生まれた産駒のうち1600頭あまりが中央競馬で競走馬となり、2800勝以上を挙げ、現在もまだ記録を伸ばしている。2025年8月末現在までに産駒が挙げた2801勝は中央競馬の種牡馬別歴代最多勝記録である。

レッドラディエンスが生まれた2019年にディープインパクトは17歳の生涯を閉じた。2020年生まれがディープインパクト産駒の最終世代となった。レッドラディエンスはディープインパクトの最後から2番目の世代に当たる。

ケガに苦しんだ
サラブレッドは再び
新たな世界を歩き始める。

初期調教を受けたレッドラディエンスが競走馬になるために向かったのは茨城県美浦村にある日本中央競馬会の美浦トレーニング・センターだった。中央競馬で歴代2位の1570勝を挙げた藤沢和雄調教師がレッドラディエンスを育てることになった。

順調なステップを踏み、2021年8月、函館競馬場でデビュー戦を迎えた。ディープインパクト産駒ということもあって、1番人気の支持を集めたが、結果は13頭立ての6着に終わった。翌週、競馬の世界で「連闘」と呼ばれる2週続きの出走をし、今度は見事に初勝利を飾った。その後、3着、1着となり、成績を4戦2勝としたところで骨折が判明した。けがの治療、復帰へのトレーニングのための長期休養に入った。休養は長引き、3歳春の皐月賞、日本ダービーに出ることはできなかった。

レッドラディエンスを管理していた藤沢調教師は、2022年2月いっぱいで70歳の定年になることが決まっていた。厩舎の解散に伴い、レッドラディエンスの新しい移籍先は滋賀県にある栗東トレーニング・センターの友道康夫厩舎となった。新天地で再スタートを目指した。

2022年7月、福島競馬場で8カ月ぶりの復帰を果たした。勝ち馬と4分の3馬身差という2着に健闘した。だが直後に再び骨折が見つかった。結局、3歳時はこの1戦しか走ることができなかった。その後もレッドラディエンスはけがとの闘いを強いられることになる。

2024年、5歳になったレッドラディエンスはようやく本領を発揮する。この年、2戦して1着、2着。故障が癒え、体調が良くなるにつれて、持てる能力を発揮。上位争いができるようになった。

7月、福島競馬場で行われる七夕賞に出走することになった。デビュー12戦目にして初めての重賞レース挑戦だった。レースは15頭立てで行われ、戸崎圭太騎手とコンビを組んだレッドラディエンスは2番人気に支持された。

バビットが先手を奪って逃げる展開は速いペースになった。レッドラディエンスは中団を進んだ。前半オーバーペース気味で飛ばしたせいで先行勢の勢いは後半なくなった。追い込みタイプのレッドラディエンスには、おあつらえ向きの流れだった。最後の直線で外側に進路を取ったレッドラディエンスはぐんぐんと末脚を伸ばした。ライバルを寄せつけない完勝だった。ゴールでは1番人気のキングズパレスに2馬身の差をつけていた。節目の第60回を迎えた七夕賞で、悲願の重賞初制覇となった。

しかし、いいことは続かなかった。七夕賞に次いで出走した新潟記念で5着になった後、左前脚のけがに襲われた。けがの症状は重く、現役生活を続けることは難しくなった。2024年12月、登録を抹消。競走馬を引退することになった。2021年8月から2024年9月まで丸3年の現役生活のうち脚のけがで休んだ期間は1年10カ月にも及んだ。その現役生活は、ライバルと戦う以前に自分との闘いでもあった。

藤沢調教師から管理を引き継いだ友道調教師は「けがさえなければ、もっともっと活躍できたはずの能力の持ち主でした。これからは馬術の世界で頑張ってほしいですね。まだ6歳。残る馬生の方が長いですからね」とエールを送る。

引退競走馬のセカンドキャリアにはいくつかの道がある。乗馬も選択肢のひとつだ。前述したように競馬と馬術では求められる動きはまったく違う。しかし人を乗せて、手綱を通して、人と呼吸を合わせることに関しては共通する部分が多い。
競走馬から乗馬への転身を目的にする再調教、リトレーニングの技術はここ数年で急激に向上していると言われる。

レッドラディエンスは馬場馬術の第一人者である林さんに導かれて馬術の世界を歩み始めた。当面の目標はRRC(Retired Racehorse Cup,引退競走馬杯)という大会に出場し、年末にあるRRCファイナルに進むことだ。9月、その前哨戦でレッドラディエンスは見事に優勝し、RRCファイナルへの出場権を獲得した。林さんは「引退競走馬の活躍の場が広がることはいいことだと思う」と話した。

※レッドラディエンスの七夕賞のゴール、表彰式、ディープインパクトの有馬記念(2006年)のゴールの写真はJRA提供

2025.09.26

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