TAW Thoroughbred Aftercare and Welfare

猫の相棒は重賞勝ち馬。
かつて、劇的な名勝負を
飾ったネコパンチの今。

3月中旬、引退馬の牧場「ノーザンレイク」を訪ねると、体のあちこちに泥をつけたネコパンチが元気に出迎えてくれた。
専用の放牧地で日々を過ごすネコパンチは脚を使って器用に穴を掘り、その中に寝ころがるのが大好きだという。体に泥をつけていたのは、いつものように大好きな泥遊びをして、リラックスしていた証拠だった。

元競走馬のネコパンチは19歳になった。
2006年、北海道浦河町にあった牧場で生まれた。父ニューイングランド、母パシェンテという血統のサラブレッドだ。
父は中央競馬で7戦4勝の成績を残し、母は地方競馬で68戦6勝を挙げた。母パシェンテの3番目の子がネコパンチだった。

茨城県美浦村にある日本中央競馬会(JRA)の調教施設、美浦トレーニング・センターの小林常泰厩舎に入ったネコパンチは2歳だった2008年7月にデビュー戦を迎えた。函館競馬場で行われたダート1000メートル戦がデビュー戦の舞台だった。
砂の上を走るダート戦は苦手だったようで、ネコパンチは5頭立ての最下位だった。それも優勝した馬から3秒9、4着馬から1秒7も離された、ぶっちぎり(失礼)のドンジリだった。

そんな競馬人生をスタートさせたネコパンチだったが、1カ月後に初勝利を飾る。
3戦して5着、7着、3着と徐々に成績を上げてきた4戦目。舞台は3戦した函館競馬場から初めて走る札幌競馬場へと変わっていた。芝1200メートル戦。10頭立ての大外枠からスタートしたネコパンチは3番手を進み、3コーナーでは2番手に進出。最後の直線に向くと末脚を伸ばし、2着馬に1馬身4分の3差をつけてゴールイン。最下位デビューから、わずか4戦で初白星にたどり着いた。
手綱を取っていたのはデビュー2年目の若手、丸田恭介騎手だった。丸田騎手とはその後、何度もコンビを組むことになる。

小林調教師が定年で引退することになり、2010年12月に星野忍厩舎に移った。
その2年後の2012年、ネコパンチに馬生のハイライトが訪れる。

3月24日に中山競馬場で行われた第60回日経賞だ。
芝2500メートルで争われる上から2番目に格の高いGⅡ重賞レースだ。
1番人気のルーラーシップはすでにGⅡで3勝を挙げ、前走のAJC杯でも優勝と勢いがあった。日経賞の直後に遠征した香港のGⅠレースで優勝することになる。2番人気は4歳のウインバリアシオンだ。前年の日本ダービー、菊花賞ではいずれも3冠馬オルフェーヴルの2着になっていた。

一方のネコパンチはそれまで4度重賞レースに挑んでいたが、このうち3戦で二桁着順というレース内容だった。14頭立ての12番人気とまったくの伏兵扱いだったのも仕方がなかった。気楽な立場が、のびのびとしたレースぶりにつながった。
ポンと好スタートを切ると先頭に立ち、13頭のライバルを引き連れて逃げる戦法に出た。「いつかはばてるだろう」とタカをくくっていた後続の思惑は外れる。気づいた時にはすでに遅い。ネコパンチが2着のウインバリアシオンに3馬身半の差をつけ、楽々とゴールした。

単勝の配当は1万6710円の万馬券。ワイド、馬単、3連複、3連単の配当はいずれもレース史上最高額となった。 翌日のスポーツ新聞では金星をたたえる見出しが躍った。 「ネコパンチ“KO勝ち”」 「ネコパンチまっしぐら」

レース後の優勝インタビューで手綱を取っていた江田照男騎手がタレント猫ひろしさんのギャグを真似て「ニャー」と観客を笑わせたのもファンに強烈な印象を与えた。ユニークな馬名のうえ、大波乱の主役となったネコパンチは一夜にして競馬界の人気馬になった。

ただ日経賞がネコパンチの頂点だった。
その後は手の内を見透かされ、主導権を奪っても早めに競りかけられ、大敗するようになった。二桁着順が9度続き、2013年11月の福島記念を最後に現役生活を終えた。56戦5勝。2歳から7歳まで息長く走った。

競走生活を終えたネコパンチは府中市にあるJRA東京競馬場に移動した。「誘導馬」になるためだった。
誘導馬とはレースに出走する馬たちがパドック(下見所)からコースに出る際に一列になって入場するが、その時に出走馬たちを前と後ろで挟むかっこうで連れていく役目の馬たちだ。元競走馬たちが引退後に誘導馬になるケースが多い。

出走馬たちは実戦を間近に控え、中には気持ちが高ぶって、興奮気味の馬もいる。誘導馬はどっしりと構えて、そうした馬たちを落ち着かせる役割も担う。ネコパンチはおよそ1年間の訓練を受け、晴れて誘導馬になった。各競馬場には現役を引退後に誘導馬として働く馬たちがいる。元気に働く誘導馬を目当てに競馬場を訪れるファンもいるほどだ。

ネコパンチが、
ボス猫のメトと
過ごす日々。

約9年間、東京競馬場などで誘導馬、乗馬として頑張ったネコパンチは2023年12月、北海道新冠町にある牧場ノーザンレイクに移動した。ノーザンレイクは引退馬の牧場として2020年7月にスタートした。廃業した牧場を整備し直し、かつてJRAで厩務員だった川越靖幸さんと競馬ライターの佐々木祥恵さんが立ち上げた。

佐々木さんは現役、誘導馬時代を通じてネコパンチのことを取材、その現状を原稿にしていた。そんな縁もあり、佐々木さんはもしネコパンチが東京競馬場を離れることになったら、ノーザンレイクで引き取らせてほしいとJRAに打診した。するとJRAからノーザンレイクへ譲渡するという返事が届いた。

ネコパンチをノーザンレイクで受け入れることが決まった際、佐々木さんは生まれ故郷の牧場に知らせようと連絡を取った。しかし牧場主は他界、牧場は閉鎖されていたことがわかった。元従業員からは牧場主は生前、ネコパンチを引退後に迎え入れるため、放牧地まで決めていたことを教えられた。

お天気のいい日は日の当たる放牧地で過ごし、雨が降れば、馬房で暮らす。放牧地では草を食んだり、得意の泥遊びに興じたりする。馬房を覗くと、そこに敷かれているのはたっぷりと厚みのある寝藁だ。寝心地がよさそうだ。余生を送る場所を与えてもらったネコパンチは幸せそうに見えた。

ネコパンチの放牧地を囲ってある柵はほかの放牧地のものより50センチほど高く作られていた。それには理由があった。ある時、放牧していたはずのネコパンチが別のミニ放牧地にいたことがあった。どうやら柵を跳び越えて外に出たらしい。競走馬として最後に所属した厩舎の星野忍調教師は元障害のジョッキーだった。
ネコパンチが日経賞を勝った後、成績が頭打ちになったころ、障害レースへの転向も視野に入れて、飛越の練習をしたことがあったそうだ。年齢を重ねても、そこは元来が身体能力の高いアスリートだ。柵を跳び越えるぐらいは平気なのだろう。脱走事件を起こした後、万全を期して、柵が上に追加されることになった。

このようにノーザンレイクに移ってからもネコパンチはマイペースで日々の生活を送っている。
現役時代に11度コンビを組んで、ともに戦い、全5勝のうち、最多の3勝を挙げたのが前述した丸田騎手だ。ノーザンレイクを訪ねた後、丸田騎手にネコパンチについての思い出を伺うことができた。
丸田騎手は「自分をしっかり持っている馬でした。ほんとにいい経験をさせてもらいました」と当時を振り返った。競走馬には距離適性というものがある。得意にするレースの距離が馬によって、だいたい決まっているのだ。
しかしネコパンチは違った。
丸田騎手とのコンビで勝った3戦の距離は1200メートル、1500メートル、2600メートルと幅が広かった。こんなに異なった距離で優勝する馬は珍しい。気持ちが乗った時にはどんな距離でも走り切ってしまう。自我が強く、マイペースな性格のネコパンチだからこその特長だ。

ノーザンレイクには引退馬のほかに看板猫のメトがいる。2020年にノーザンレイクが開場した3日後、1匹の猫が牧場に迷い込んで来た。とても人懐っこく、筆者が訪れた日も、ニャアニャアと鳴きながら近づいて来た。その鳴き声はまるで人がしゃべっているように聞こえる。メトは馬にもなついていて、ネコパンチとも仲がいい。猫と「ネコ」だからなのだろうか。

佐々木さんがSNSでメトと引退馬たちの様子を発信すると、ツイッター(現X)のフォロワーが瞬く間に増えた。現在、フォロワーは7万人を超えた。馬との交流を描いたフォトブック「ボス猫メトとメイショウドトウ」が発売されるほど人気を集めることになったのもメトのおかげだ。
いただいたメトの名刺の肩書は「執行役員」と「広報部部長」だ。ファンにノーザンレイクの名前を広げた功労者である。 馬と猫が仲良く暮らす牧場でネコパンチは余生を送っている。

※日経賞のゴール、表彰式の写真はJRA提供

2025.07.23

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