第18回 伝統の馬事競技・打毬 その3 豊烈神社奉納古式打毬
山形県山形市の豊烈神社で行われる打毬は、宮内庁主馬班、青森県八戸市の加賀美流騎馬打毬に並ぶ日本三大打毬の一つだ。江戸時代後期に始まり、現代まで豊烈神社の秋の例大祭に合わせ、施行されてきた。どんな打毬なのか、紹介する。
和洋折衷
JR山形駅にほど近い、市内中心部の豊烈神社に到着した。江戸時代にこの地を治めた水野藩の、藩祖・水野忠元を祀った神社だ。もともとは浜松にあり、創建した第11代藩主水野忠邦は、忠元が亡くなった10月6日を例祭日とし、神事として打毬を奉納した。「豊烈神社奉納古式打毬」の始まりである。一時途絶えたものの、1880(明治13)年に神社は山形に遷され、3年後、再び打毬が奉納されて現在に至っている。2006年には山形県の無形民俗文化財にも指定されている。
神社の敷地に馬場が設けられ、多くの人々が周りを囲んでいた。聞けばもともとは駐車場で、前日から砂を入れて馬場を作ったのだそうだ。大きさは東西41.2m、南北12.2mと決められている。馬場の東側の奥には毬門がある。毬を入れる的穴の位置は下から2.4m。馬に乗って、投げ入れるにはちょうどいい位置だ。
馬が入場してきた。紅組3頭、白組3頭の計6頭。いずれもサラブレッド。付近の乗馬クラブの馬たちとのこと。思ったより落ち着いているのが印象的だ。馬上の騎手はいずれも紋服・袴、籠手をつけ、頭に陣笠をかぶっている。毬をすくう長さ1mほどの竹の杖(毬杖。ここでは「さで」と呼ばれる)を手にしている。
だが足元を見れば長靴に拍車。馬装も鞍やアブミ、頭絡は完全にブリティッシュ。馬神事によくある装飾もない。和洋折衷だが、これには理由がある。江戸時代中期に始まったものの、その後途絶えてしまい、復活したのが明治に入ってからだったので、西洋文化の流入とともにこのスタイルになった。

馬場に入ってきた各馬。正面が毬門となる。
馬場に散らばった自軍の毬をすくう。

毬門の的穴をめがけて、自軍の毬を投げ入れる。
次代へつなぐ
午前11時。鐘と太鼓が響き、競技が開始された。各々が馬場に散らばった直径約4.5cmの紅白の毬を毬杖ですくう。すくうのは自軍の色の毬と決まっている。東側の毬門に進む。的穴の直径は約40cm。騎手は毬杖を振り、先端の網に入っている毬を的穴へと飛ばす。
この間、馬は結果的に常歩。毬門前で並んで相手が毬を投げ入れるのを、順番に待っている。淡々と騎馬がやってきては、投げ入れが続く。紅毬が入れば鐘が、白毬が入れば太鼓が鳴り、外れれば各々再び毬をすくいに行く。
こうして次々と毬を入れる。5球先に入れた方が、十文字の印が入った揚毬を投げ入れる権利を得る。これを入れた方が勝ちとなる。
全体としては、宮内庁の打毬に似ている。ただ、宮内庁の方は馬場に置かれた毬を取り合ったり、途中は駈歩で走ったりと、もう少し動きがあった。
揚毬が的穴に入ると、負けた紅組は陣笠をとって下馬。勝った白組は馬上で勝どきをあげた。こうして第1試合が終わった。終始静かな雰囲気で試合が続き、計4試合が終了。気づけば午後1時。昼休憩となった。
休憩後は稽古着に袴の十数人の小学生が登場。毬杖を手に馬場から毬をすくい、歩いて毬門に近づくと的穴に毬を投げ入れる。「徒打毬(かちだきゅう)」という。後継者育成を目的に1992年に始まった。
こういった伝統行事を継続するには子供たちへのアピールは欠かせない。ただ、子供にとっていきなり馬に乗って、というのはハードルが高すぎる。徒打毬は非常にいい企画だと思う。
打毬は非常に珍しい伝統の馬行事だ。なんとか次代へとつないでいってほしい。
馬上から的穴に毬を投げ込む。

揚毬を的穴に入れ、勝利を確定した白組が勝どきをあげる。

徒打毬。子供たちが毬杖を振って的穴に毬を投げ入れる。