TAW Thoroughbred Aftercare and Welfare

第11回 福島県相馬市・相馬野馬追 前編 その1

日本最大の馬祭事といえば相馬野馬追を思い浮かべる人は多いだろう。参加する馬と人の数、それを見守る観客数は、他を圧倒している。馬を除いて考えても日本を代表する祭りの一つといえる。3日間続くイベントを取材するため、相馬を訪れたのは東日本大震災復興後のことだった。

日本最大の馬行事

相馬野馬追は千有余年の伝統を誇り、夏の東北6大祭りに数えられる屈指の祭礼だ。国の重要無形文化財にも指定されている。3日間トータルの人出は10万人を超える。各行事の参加者は、スタッフも入れれば、1000人以上。そして、参加する騎馬の数は400騎を超える。3場開催時の中央競馬で1日に出走する馬の数に近い。馬が参加する祭事としては、日本最大だろう。

参加地区としては、相馬市・南相馬市の各町村に及ぶ。中ノ郷、小高郷、標葉(しねは)郷、北郷、宇多郷と5つの地区に分かれ、それぞれに騎馬会がある。さらに5つの騎馬会は、相馬太田神社(中ノ郷)、相馬小高神社(小高郷、標葉郷)、相馬中村神社(北郷、宇多郷)の3つの神社に属し、それぞれが武者行列の際の一集団を形成する。

初日、福島県南相馬市小高町の相馬小高神社は、様々な意匠の陣笠・陣羽織の侍たちでごった返していた。江戸時代にタイムスリップしたかのような光景に一瞬、頭が混乱する。

相馬小高神社はもともとは小高城という相馬重胤が1326年に居城として建てた山城。したがって、境内は小高い丘の頂上にある。

「副軍師、ご到着!」

時折、閑静な山あいに大音声が鳴り響く。高位の武者を告げる、実際にも行事の役員となる人たちだ。続いて螺役たちによる螺(かい。法螺貝のこと)の音が神社の森をふるわす。そこに集う森羅万象すべての生あるものに染み渡る荘厳な音色だ。

役員の挨拶に続き、お神酒の拝戴。各武者が、杯に入れられたお神酒を飲み干す。最後に再び螺の音。行列の順に総勢100名を超える侍たちが粛々と境内を去っていく。こうして相馬小高神社における相馬野馬追出陣式が終わった。

相馬小高神社の境内を埋め尽くした陣羽織の侍たち。

参道に整列して軍師役の主催組織役員を待つ。

全員で神社にお参り。

野馬追の歴史

野馬追の歴史は平安時代中期、関東の王者として時の朝廷から恐れられ、ついには反逆者として討伐された平将門に始まる。その当時から関東は良馬の産地として鳴り響いていた。将門は、野に野生馬を追い、これを捕捉する行事を、一種の軍事訓練として行った。この行事が、将門を祖とする戦国大名・相馬氏に受け継がれた。相馬氏は最初、千葉・流山を拠点としていたが、関ヶ原の戦いで徳川方につかず、一旦は改易された。その後徳川家光の時代になって領土を安堵され、現在の相馬地方を治める中村藩6万石の大名となった。江戸時代、太平の世にあっても戦を忘れないよう、野馬追は軍事訓練を兼ねた藩伝統の行事として続けられる。

軍事訓練として野馬追が行われ続けた背景としては、隣国・奥州伊達藩の存在があったといわれる。伊達氏は相馬氏の最大のライバルであり、戦国時代、プレッシャーを受け続けた。江戸時代に幕藩体制が固まったあとも、有事の際の仮想敵国として想定されていたようだ。

伝統行事の最初の危機は、明治維新。徳川幕府が倒れたあとも東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し、新政府に対抗する。当初、中村藩もこれに参加したものの、早い時期に脱退し、恭順の意を示した。それでも朝敵の汚名はついて回る。軍事訓練を兼ねた行事は、叛意を示すことになり、このままでは続けられない。そこで、神社との結びつきを強め、祭礼として継続することを明治政府に申し出た。これが認められ、今の原型ができた。

2度目の危機は戦争直後。人も馬もばらばらになり、組織の立て直しが急務となる。また、武者姿で行う行事はGHQによって軍国主義復活ととられる可能性があった。だが、地区の祭りとしての意義を強調し、GHQを説得。なんとか途切れさせることなく、続けられた。

3度目の危機は2011年に起こった東日本大震災とそれに続く原発事故。未曾有の災害は相馬地方一帯を徹底的に破壊した。立ち入りさえ許されない地区が設定され、多くの住民が避難を余儀なくされた。それでも郷土の誇りを胸に強い意志を持った人々によって祭りは続けられたのだ。

神社は相馬氏の居城跡に建てられたものだった。

神社の鳥居。ここをくぐって長い階段を上っていくと本殿に行き着く。

境内に張られた陣幕。縁が深い馬の意匠になっている。